前回、両親から受け取った金融の知識は一つだけだったと書きました。
借金はするな。
今回は、その一行がどこから来たのかを書きます。
中学を出て、経営の一歩手前まで
父は、中学を出てすぐに働き始めた人です。
そのまま大きな会社に入り、成果を積み上げ、経営を任される候補にあたる試験を受けるところまで上り詰めました。 学歴で言えば、社内で最も遠いところから出発して、です。
前に私は、こう書きました。
高校を卒業して、いや、中学を卒業して、すぐに社会に出て働いていたら。
書いてから気づいたのですが、それを実際にやった人が、すぐ近くにいました。 父です。
そして父は、それで届くところまで届いた。私が学校にいた時間を「考えずに済ませるための猶予」と書いたのは、たぶん、この背中を見ていたからだと思います。
そこで、止まりました
諸事情があって、父は最後の一段を上りませんでした。そのまま引退し、いまは年金で悠々と暮らしています。
本人は、こう振り返ります。
もし社長になっていたら、もっと早くにお迎えが来ていたかもしれない。
誇張ではありません。それを暗示するように——父の同僚の多くは、六十代前半で亡くなっています。
この事実を、私は長いあいだ、うまく飲み込めずにいました。
出世の話は、たいてい上るか上らないかの二択で語られます。上れなかった人は、惜しい人として扱われる。けれど父の世代の、あの環境で上りきるということは、寿命と引き換えにするということでした。
前回、自分の仕事を「中負荷」と書きました。潰れるほどきつくはなく、辞めたくなるほど退屈でもない。それが二十年続いた理由だと。
父は、高負荷で走り切った人です。そして、最後の一段を上らなかったことで、いま生きています。
上り詰めないことにも、価値があります。 これは負け惜しみではなく、数字の話です。二十年長く生きて年金を受け取り続けることと、数年間の高い報酬と。どちらが大きいか、計算するまでもありません。
父が支えていたもの
父の稼ぎは、それなりにありました。そして、その稼ぎが支えていたものは、一つではありませんでした。
- 戦後、お金のなかった祖父母に、小さな店を持たせた
- 子供を三人もうけた
- 戸建てを買った
- 三人とも私立の大学へ通わせた
並べてみると、一人の給与所得が背負う量として、かなりのものです。
私が「大学に行けて当然」という顔をしていた頃、この構造はすでに動いていました。私はその中にいて、何も見ていませんでした。
母の背中
家計を預かっていたのは母です。
母は途中から、祖父母のあの店を引き継ぎました。子育てをしながら、店をまわしていました。
けれど、店はうまくいきませんでした。法律の改正と、世間の流れの変化に、乗れなかったのです。商売の良し悪しというより、足元の条件が変わってしまった、というほうが近い。
厳しい時期には、父の給与から運営の資金を補填することすらあったと聞いています。
商売をしている家の子は、たいていこの光景を見ています。お店の売上と、家の財布が、地続きであるという光景です。
私は、苦労している母の背中を、間近で見ていました。
借金が、何層にもありました
そして、借金です。
- 高い利率で借りて建てた、郊外の実家
- 店の改装費
- 子供三人分の教育費
- 祖父母の介護
一つひとつは、どれも真っ当な理由のある支出です。家を建てる。店を直す。子を学校にやる。親を看る。どれも、やらないという選択がしにくいものばかりでした。
それが、同じ時期に重なりました。
いま私が、四十四歳で独身のまま資産を積んでいられるのは、この四層のどれも背負っていないからです。それは私が賢いからではなく、単に、そういう配置に生まれなかっただけのことです。ここを混同しないようにしています。
人柄の良さに、つけ込まれて
もう一つ、書いておかねばならないことがあります。これは私の家の話であると同時に、どなたの身にも起こり得ることとして書きます。
父は、人柄の良い人です。そして、その良さにつけ込まれる形で、お金の貸し借りに巻き込まれたことがありました。
貸した金は、最終的に回収できました。
ただ——事と次第によっては、生命の危険に及びかねない案件でした。
お金を貸すという話は、たいてい「返ってくるか、返ってこないか」で語られます。最悪でも、貸した額を失うだけだと。
そうとは限りません。
個人間の貸し借りで本当に怖いのは、金額ではありません。相手が誰であるか。そして、その相手の背後に誰がいるかです。
借りる側が追い詰められていれば、その背後には、こちらの想定していない人間が立っていることがあります。そして——回収しようとした瞬間に、話の性質が変わります。 貸したときは人と人の話だったものが、返してもらう段になって、まったく別のものに変わる。
金額の大小は、関係がありません。
ですから、両親の「借金はするな」には、言葉になっていない裏側がありました。
金を貸すな。
人柄の良い人ほど、断れません。父がそうでした。そして、断れなかったことの代償は、貸した額では済まない大きさになり得ます。
私がこの家で受け取った教えの背後には、この出来事があります。
だから、「借金はするな」だった
こうして並べると、あの一行の意味が変わってきます。
高い利率で建てた家。乗れなかった商売。重なった教育費と介護。そして、人の良さにつけ込まれた貸し借り。
「借金はするな」は、金融の理論ではありませんでした。 半生をかけて払った授業料の、領収書のようなものです。
前にも書いたとおり、教えとしては乱暴です。住宅ローンも事業の借り入れも、まとめて否定してしまう。正確ではありません。
それでも、両親には、あの一行しか渡せなかったのだと思います。理屈を渡す余裕がなかった。渡せたのは、痛みの結論だけでした。
そして——その両親に、私は二百万円を借りさせました。
この連載の最初のほうで書いたことです。あのときの私は、両親のこれらの層を、何一つ見ていませんでした。「大学に行けて当然」という顔をしていた学生が、その上さらに、である。
いまでも、思い出すと足元が冷えます。
受け取ったもの
戦後の日本を働き抜いて、苦労に苦労を重ねた両親を、私は間近で見ました。
そのうえで、私が実際に受け取ったものは、たぶん三つです。
- 借金はするな、そして 金を貸すな という、理屈を欠いた、しかし強い禁止
- 商売の売上と家の財布が地続きであるという、生々しい光景
- 上り詰めなかった父が、いま生きているという事実
三つ目が、いちばん効いています。
私は資産の話をしていますが、目的は増やすことではありません。枕を高くして眠り、長く生きることです。
それを最初に教えてくれたのは、社長にならなかった父でした。
本記事は、筆者個人の家族についての記録です。 会社名・店の業種・地名、関係する方の詳細は伏せております。特定の働き方や金融商品を勧めるものではありません。 本記事に広告は含まれません。