№ mmxxvi · ix a quiet journal
支えるしくみ

一年、早すぎました

一八〇万円の資格を、自腹で買った話

前回まで、両親の代の話を書きました。今回は、自分の給与の話に戻ります。

毎年、少しずつ上がる仕組み

勤め先には、毎年 1.5〜4% ほど給与が上がる仕組みがありました。

長く勤めてほしいという会社の希望と、働く側が安心して過ごせるようにという配慮の両方があったのだと思います。

会社にとっては、これは軽い話ではありません。給与を上げれば、会社が負担する社会保険料も同じ割合で増えます。 一度上げた給与は、そう簡単には下げられません。かなり負担の重い約束です。

そして私は、この仕組みの裏側をこう理解していました。

退職金の積み立てが、ほとんど無い会社でした。 その代わりに、毎年のベースアップという形で支払われている。そういう構造だったのだと思います。

これは、良し悪しの話ではありません。受け取る時期が違うという話です。

退職金毎年の昇給
受け取る時期辞めるとき(後払い)毎年(前払い)
税の扱い退職所得控除があり、かなり有利普通に課税される
自分で運用できるかできないできる
会社が傾いたら受け取れないことがあるすでに受け取っている

税の面だけを見れば、退職金のほうが有利です。それでも私は、前払いで良かったと思っています。

早く手元に来た分は、自分で置き場所を決められます。そして会社が傾いても、すでに受け取った給与は消えません。この連載で書いてきた「置き場所を分ける」という話は、そもそも手元にお金が来ていなければ始まらないのです。

資格の打診がありました

勤めて数年が経った頃、会社から資格取得の打診がありました。

  • 業界内では必須とされる、世界的な民間資格
  • 国家資格ではない
  • 他の業種では、まったく通用しない
  • 取得までおよそ 半年
  • 費用は 約 180 万円

そして――費用は会社負担ではなく、全額が個人負担でした。

自腹は、当然だと思いました

当時の私は、無知でした。驚きもせず、そういうものかと受け入れています。

そして正直に書きますが、いまでもその考えは変わっていません。

創業した社長は、当然、自分で費用を用意したはずです。会社のための資格とはいえ、それは自分の身に付くものです。資格は会社に残らず、私に残る。ならば自分で用意するのが筋だろう、と。

理屈としては、いまもそう思います。

ただ――給与所得者の平社員が、他の業界では役に立たない高額な資格を自前で買うというのは、実際にはかなり大変でした。

そのお金は、もともと何かのために貯めたものではありません。交際費や、結婚や、病気や、そういう予測のつかない支出に備えて置いていたお金です。前回まで書いてきたとおり、手取り十万円弱の暮らしから少しずつ積んだものでした。

それを、一つの資格に差し出す。躊躇しました。

数年、もやもやが残りました

社長も経理担当も、こういう支出について何か知っていたのではないか。知っていて、あえて補助しなかったのではないか。

そう考えたことがあります。

私自身の、能力の面でも心の面でも幼かったところが混ざって、この気持ちは数年ほど尾を引きました。

そして最近になって、当時どうすればよかったのかを調べました。

結論を先に書きます。制度は、ありました。

当時も、使える制度がありました

給与所得者の特定支出控除という仕組みがあります。

会社員が自分で払った、仕事に直接必要な支出を、所得から引ける制度です。資格取得費も、その対象に含まれています。

私が資格を取ったのは 2012 年でした。当時のこの制度は、いまよりずっと厳しいものです。

  • 引けるのは、給与所得控除額を「まるごと」超えた部分だけ(いまは 2 分の 1 を超えた部分)
  • 勤務先の証明書が必要
  • 年末調整では処理できず、確定申告が必要

それでも、180 万円という額なら、この厳しい基準を超えていたはずです。

年収給与所得控除引けた額
300 万円108 万円72 万円
350 万円123 万円57 万円
400 万円134 万円46 万円

所得税と住民税を合わせて、十万円台が戻っていた計算になります。

必要だったのは、たった二つ。会社が「職務の遂行に直接必要です」と証明書を書くことと、私が確定申告をすること。会社のほうから打診された資格ですから、証明は問題なく出せたはずです。

誰も、知らなかっただけでした

では、なぜ誰も気づかなかったのか。

調べていて、腑に落ちる数字が出てきました。

当時のこの制度の利用者は、全国で年に一桁でした。

日本中で数名です。あまりに使われないので、翌 2013 年に制度そのものが作り変えられた、というのが経緯でした。

税理士でも扱ったことがない人のほうが多い制度です。中小企業の社長と経理担当が知らなかったことを、私はもう責める気になれません。 知っていて黙っていた、という話ではなかった。ただ、誰も知らなかった。

数年抱えたもやもやの正体は、意地悪でも冷たさでもなく、情報が無かったことでした。

そして、一年早すぎました

ここが、いちばん苦いところです。

翌 2013 年分から、判定の基準が「給与所得控除額の 2 分の 1」に緩和されています。

同じ 180 万円を一年ずらして払っていたら、引ける額は 57 万円ではなく約 118 万円。戻ってくる額は、倍以上でした。

一年です。

いま、同じ立場にいる方へ

ここからは実用の話です。いまなら、手が三つあります。

一つ、会社側に助成金があります。 人材開発支援助成金の人材育成支援コースなら、業務から切り離した訓練が 10 時間以上あれば対象で、中小企業の経費助成は 45%。要件を満たせば 60% まで上がります。ただし事前に訓練計画届を出しておくことが必須で、後からは申請できません。会社に伝えるなら、申し込む前です。

二つ、特定支出控除は基準が緩くなっています。 いまは給与所得控除額の 2 分の 1 を超えた部分が引けます。勤務先の証明書と確定申告が要ることは変わりません。

三つ、2025 年 10 月に教育訓練休暇給付金が新設されました。 無給で教育訓練の休暇を取る間の生活費を支える制度です。被保険者期間 5 年以上が要件で、会社にその休暇制度があることが前提になります。

なお、雇用保険の教育訓練給付金は厚生労働大臣の指定講座に限られるので、海外機関の民間資格は対象外のことが多いはずです。指定講座の検索システムで確認するのが確実です。

そして、注意を二つ。

支払いが二つの年にまたがると、話が変わります。 特定支出控除は年ごとの判定です。180 万円が二年に 90 万円ずつ割れていたら、どちらの年も基準に届かず、一円も引けないことがあります。領収書の日付が効きます。

遡れるのは五年です。 還付申告も更正の請求も五年が限度なので、私の 2012 年分はとっくに締め切られています。取り返すことはできません。

もやもやの、正体

この一件から私が受け取ったのは、恨み言ではありません。

制度を知らないということは、そのまま金額になる。

これに尽きます。誰も悪意を持っていなくても、誰も知らなければ、十万円は戻ってきません。そして知っていれば、証明書一枚と確定申告一回で済んだ。

自腹で買うべきだ、という考えは、いまも変えていません。変えるべきだったのは、買い方のほうでした。


本記事は、筆者個人の経験の記録です。 税や助成の制度は執筆時点のもので、要件は改正されます。個別の判断は税理士・社会保険労務士等の専門家にご確認ください。金額はいずれも概算で、資格名・会社名・業種は伏せております。 本記事に広告は含まれません。